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よくわかるエレベーターと建物のこと

「公共空間」ルネッサンス

写真提供:太田浩史さん

日本における公共空間で馴染み深いのは、ロータリーやタクシープールがある駅前広場ではないでしょうか。
戦後、駅前の整備が全国で進められるにつれ、こうした駅前広場が次々とつくられ、駅前広場に対する共通イメージができあがってきました。
では、駅前広場は今後、どう変わっていくのでしょうか。
今回は、現在、熊本県の南阿蘇鉄道高森駅を設計されている建築家・太田浩史さんに、駅前広場の現状、高森駅プランのポイントやプロポーザルの勝因、駅前広場から見る公共空間の再生についてお伺いしました。

太田 浩史 ( おおた ひろし )さん
建築家/株式会社ヌーブ 代表取締役

建築家/ピクニシャン/博士(工学)。1968年東京生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院建築学専攻修士課程修了。東京大学助手、特任研究員、講師を経て2015年より株式会社ヌーブ代表。作品に「PopulouSCAPE」(映像作品/2005年)、「矢吹町第一区自治会館」(2016年)、「南阿蘇鉄道高森駅グランドデザイン」(2019年)など。共著に『世界のSSD100』『シビックプライド』など。2002年より東京ピクニッククラブを共同主宰。

日本における「広場」とは

──日本における駅前広場の現状をどのように考えていらっしゃいますか。

太田駅前広場には伝統的に設計指針があって、それが1960年代以降のモータリゼーション以降、ますます混雑する駅前を処理する鍵だったんですね。設計指針の成果はもちろんありましたが、交通処理が再重要課題になりすぎて、歩行者空間の質がおろそかにされたり、画一的で地域性が感じられないなどの問題もありました。
 現在の「駅前広場計画指針」は1998年にできたもので、都市の拠点機能として駅前広場を捉える視点を持っているのですが、本当に豊かな交流場所、居場所を実現するには方法論がまだ固いと思います。駅が地域公共交通網の結節点として、または都市のコンパクト化の鍵となる施設として注目を集める中、駅前広場には変化が求められていると思います。

──それは、例えばどういう変化でしょうか。

太田駅前広場計画指針では、交通処理をする交通空間とは別に、人々の交流の場となり、また景観を形成する「環境空間」があるのですが、その環境空間の配置にいろいろな工夫が見られるようになっています。例えば、旭川駅や二子玉川駅などでは、交通ロータリーではなく、広場のような環境空間が人々を迎えるようになっていて、実に気持ちが良いと思います。姫路駅北駅前広場や日向市駅前広場では、公園のように居心地の良いスペースもつくられています。まちを代表する都市空間として駅前広場の公共空間として、質が重視される方向に変わってきたという印象があります。

姫路駅北駅前広場のサンクンガーデン。交通広場の常識を廃し、駅前にある大手前通りを公共交通と歩行者だけが通行できる歩車共存道路(トランジットモール)にする試みを日本で初めて実現
写真提供:姫路市

──駅前広場以外の公共空間について、太田さんにとって望ましい空間を教えてください。

太田中学3年生の時にニューヨークに旅行する機会があったんですね。そこでマディソン・スクエア・ガーデンやセントラルパークで、人々がパフォーマンスやピクニックをしているのを見て、「こういう空間があって、羨ましいな」と感じました。

ニューヨークにあるセントラルパーク。南北4キロ、東西0.8キロの細長い形をしている。マンハッタンで生活する人々の潤いの場となっている。ジョギングやサイクリングを楽しむ人も多い
©Ingfbruno(CC BY-SA 3.0

 その後、高校生になって東京を歩き回り、セントラルパークやマディソン・スクエア・ガーデンみたいな場所を探したんですが、そんな場所どこにもなかったんですよ。何か、単純に見つからないというよりも、そもそも欧米のような公共空間という概念が見当たらないという感じでした。その感覚は、その後1997年に原宿のホコ天(歩行者天国)が廃止された時にいっそう強くなりました※1

──公共空間への意識が低かったのは歴史的な経緯があるのでしょうか。

太田戦後から始めると、日本の広場はヤミ市のクリアランスから始まっていますからね。新橋駅西口のSL広場や渋谷駅ハチ公広場などは、そういう混乱の中で生まれてきたのですが、そんな中でも、民主主義と市民と広場とを結びつける理念的なアプローチがありました。前川國男の世田谷区庁舎の広場や丹下健三の今治市庁舎の広場など、モダニズムの建築家たちがつくりだそうとした広場です。民主主義の表れとして広場を捉える視点は、羽仁五郎※2氏の『都市の論理』が代表するように、一般の方々にも浸透したと思います。

 私には、この時の広場は生活空間というよりも新しい時代の儀礼空間のように見えて、どこか違和感を覚えてしまうし、実際に定着しなかったと思うんですよ。今治市庁舎の広場は駐車場になりましたし。理念的にも、1969年の新宿地下広場のフォークゲリラの強制退去によって、広場、または公共空間への期待は大きく後退したと思います。高度成長からバブルに突入する時代の中で、居場所として公共空間を捉える視点は、やっぱり出にくかったんでしょうね。

 
東京・新橋駅西口にあるSL広場。「広場」の名がついているものの、法律上は「道路」であるため、港区の事業、地元商店会、町会等の行事以外のイベントは実施できない
©painreef3108(CC BY 3.0

※1 太田浩史「原宿ホコ天はなぜ消えたのか」(「都市+デザイン」第35号 都市づくりパブリックデザインセンター、2017)

※2 羽仁五郎(1901〜1983年):日本の歴史家、政治家。東京帝国大学文学部史学科卒業。1947年に参議院議員として当選し、1956年まで革新系議員として活躍する。1968年の著書『都市の論理』の中で都市広場こそが自由な市民の象徴であると説き、当時の学生運動から大きな支持を得た。

高森駅プランでの試み

──2018年にプロポーザルで勝たれた高森駅のプラン※3は、従来の駅とは様々な点で異なります。プランの概要について教えてください。

太田高森駅のプロポーザルは、施設のデザインではなく「グランドデザイン」、つまりマスタープランのアイデアを競うものだったんですね。そこで、200メートルのスケールを持ち、西に開いた敷地をどう活かすか、それを南阿蘇鉄道※4を巡る鉄道文化とどのように結びつけるか、という点に着目しました。その結果、カルデラに沈む美しい夕陽を一望できる「とにかく広いプラットフォーム」というアイデアに行き着いたのです。また、熊本地震の際、車中泊のスペースが確保されていなかったことが問題になったので、それに対応できる場所として回廊も組み込みました。

駅舎と回廊に取り囲まれ、緑や水盤が設けられたプラットフォーム案(2019年グランドデザイン時)。列車の乗降の場のみならず、町の人々の居心地のいい居場所としても利用される
画像提供:株式会社ヌーブ

──駅前には、見慣れたロータリーやタクシープールがありませんね(笑)。

太田そもそもなんでロータリーが駅前にあるのか、駅前じゃなくて駅横でもいいんじゃないかという想いがありました。
 私は街歩きが好きで、高校の時以来、今もいろいろな街を歩き回るんですが、神奈川県の大船に感動したことがあるんですね。大船は駅を降りると、普通ある駅前交通広場がなくって、いきなり商店街があるんですね。その経緯を調べてみると、隣の戸塚駅の商店街が再開発によってビルに押し込まれてしまったのを見て、これは良くないと駅前の再開発を反故にしたんです。だから駅前がいきなり飲み屋や魚屋の風景で、バスやモノレールの乗り換えは駅の横でするようになっている。それがものすごく頭に残っていて、ロータリーを両脇に寄せた配置案が高森駅でもできるんじゃないか、と思いました。

 
200メートルある敷地の長さを活かした全体配置計画図案(2019年グランドデザイン時)。ロータリーが長手方向の両脇に集約されている
画像提供:株式会社ヌーブ

※3 2016年の熊本地震からの創造的復興を推進するために、「南阿蘇鉄道高森駅周辺再開発グランドデザイン」が全国から公募された。応募作品全39点の中から株式会社ヌーブのプランが最優秀賞に選定され、このプランをベースに高森駅周辺の再開発が進められることになっている。

※4 熊本県南阿蘇村の立野駅から熊本県高森町の高森駅に至る全長17.7キロの路線を運営している鉄道会社。観光客向けにトロッコ列車が運行されていることで知られる。熊本地震により全線不通となったが、2021年4月現在、中松駅〜高森駅間は復旧している。

視点場からの見え方と居場所づくり

──とにかく広いプラットフォームというアイデアはどこから生まれてきたのでしょうか。

太田プロポーザルの作業中、動画サイトにアップされている前面展望と側面展望の動画を繰り返し再生していました。私自身が鉄道好きなので、どうしたら鉄道好きが楽しめる駅をつくることができるのか、ヒントを探していたんです。南阿蘇鉄道には「駅管理人」という素晴らしい仕組みがあって、駅管理人さんたちが駅舎をカフェとして使っていたり、古本屋を開いたりしているんですが、トロッコ列車が近づくと、その駅管理人さんやお客さんがプラットフォームに出てきて、乗客をお出迎えするんですね。それを見て、旅の印象を決定づけるのは駅舎ではなくプラットフォームであることに気づきました。南阿蘇鉄道には改札口がなく、バスと同じ車内改札方式なので、プラットフォームには高森の町の誰もが集まることができる。駅管理人さんたちがつくっている「プラットフォームの旅」の最後を、広場のような「とにかく広いプラットフォーム」で締めくくるのはとてもよいのではないかと思ったんです。
 西向きという敷地も大きかったです。一般的には、駅では駅舎を視対象と捉え、シンボル性をもった建築とする方法がとられると思います。でも、西を向いた高森駅では、視対象は広大なカルデラに沈む夕日だと思いました。なので、高森駅は視対象ではなく、それを見る視点場※5として捉えるべきだと思ったんです。これも街歩きから学んだことですが、印象的な視点場の整備は、都市のブランディングやシビックプライド醸成にとってとても大事だと思います。

南阿蘇鉄道のトロッコ列車の前面展望動画。

──プロポーザル案には、このプラットフォームが広場的な交流と活動の場になっている様子が描かれていて、とても印象的です。

太田南阿蘇鉄道の皆さんも高森町の皆さんもイベントをたくさん企画されるので、プラットフォームは賑やかな交流空間になると思います。私はピクニック好きで、東京ピクニッククラブ※6を共同主宰しているくらいなので、夕日と鉄道を眺める極上のピクニックもできるようにしました。その一方で、一人で静かに過ごせる居場所をつくることを忘れないようにしています。
 この駅には、大船以外にも、私がこれまで見てきた様々な街のアイデアを埋め込んでいます。例えば、フランス・ボルドーのブルス広場にある、トラムが映り込む水盤(水鏡)。オーギュスト・ペレ※7が設計したル・アーヴルの、2つに割れた建物の間をトラムが通り抜け、その先に海が広がる風景。やはり海に開いたトリエステのイタリア統一広場などです。特に、イタリア統一広場で見た光景は忘れることができません。年老いた親子が二人ともアイスクリームを食べながら、無言で夕日が落ちるのを眺めていたんです。妄想ですが、二人はずっと昔から一緒に広場で夕日を見てきたんじゃないでしょうか。高森駅のプラットフォームは、そういう人生の舞台にふさわしい豊かな空間になってほしいんです。


夜のブルス広場。水盤にライトアップの光と通過するトラムが映り込む風景が美しい
写真提供:太田浩史さん

トリエステのイタリア統一広場。アドリア海へのパノラミックな眺望を背景に、街の人々の日常が繰り広げられる
写真提供:稲垣拓さん

※5 視点場:ビューポイント。そこから何かを眺める場所のこと。

※6 2002年にピクニック生誕200年を記念して結成されたグループ。洗練された現代のピクニックの姿を提案するとともに、都市居住者の基本的権利として「ピクニック・ライト」を主張し、社交の場としての都市の緑地や共有スペースの利用可能性を追求することを理念とする。

※7 オーギュスト・ペレ(1874〜1954年):20世紀前半にフランスで活躍した、ベルギー生まれの建築家。当時先端技術であった鉄筋コンクリート造による新しい造形や実験的な工法を追求したことで知られる。代表作に、「ノートルダム・デュ・ランシー教会」(1923年)、「ル・アーヴル中心市街の再建」(1945〜1964年)などがある。

公共空間の再生に向けて

──太田さんの今後の公共空間を巡る取り組みについてお聞かせください。

太田この10年、公共空間への関心が本当に高まって、公園、広場、そしてウォーターフロントが大きく変わってきました。その波が今は「道路」に到達していて、実に熱い状況です。その一環で、渋谷区の歩行者空間整備のお手伝いをさせていただいています。まだ構想段階なので具体的な絵はお見せできないのですが、ホコ天文化を生んだ渋谷区のお手伝いができるのはとてもうれしいことだと思っています。
 それから今日はあまりお話しできませんでしたが、ピクニックについて、もう少し深く研究をしたいと思っています。実はイギリスのピクニックセットの成立に日本の提重(さげじゅう)が影響した可能性があって、日本の遊山文化を公共空間の利活用という視点からもっと評価できるように思うのです。広場にせよ、公園にせよ、私たちの公共空間をもっともっとうまく使えるよう、もっと提案ができたらうれしく思います。

──本日は、日本の公共空間の歴史や、太田さんが設計されている高森駅における様々な試みについて知ることができました。現状ではまだ決して豊かとはいえない日本の多くの駅前広場も、将来的に豊かな公共空間として再生される日が来るだろう、と希望を抱けるようなお話でした。ありがとうございました。

次回は「感染症対策と家づくりの新たなニーズを両立させる空間設計」です。
乞うご期待!