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よくわかるエレベーターと建物のこと

武将の性格がお城から見えてくる!
お城の造りをヒントに建築設計を考える

今、世の中で“熱い”視線を注がれているもののひとつ──それが城郭です。 何度目かのブームが令和になって再燃。お城とその主である戦国武将にまつわる 様々な歴史的事実が新たにわかってきました。 今回は、そうした事実やお城から見えてくる戦国武将の性格などを、 城郭考古学の第一人者、奈良大学の千田嘉博教授にお聞きしながら、 建築設計に活かせるヒントはないかを探っていきます。

千田 嘉博 ( せんだ よしひろ )

城郭考古学者 1963年生まれ。名古屋市見晴台考古資料館学芸員、国立歴史民俗博物館助教授などを経て奈良大学教授。中学生時代に姫路城を見て以来お城の魅力に取り憑かれ、現在、日本と世界のお城を研究している。文化財石垣保存技術協議会評議会員、特別史跡熊本城跡保存活用委員会委員など、要職を多数歴任。

想像力を刺激する城の魅力

──いろいろな場面で、城が注目されるようになってきていますね。 千田戦国時代は既存の組織や権威が崩壊して、個人の能力と行動が社会を変えられた時代でした。圧倒的な「名門優良企業」であった室町幕府に仕えても没落してしまう。それに対して名もなき庶民の出身の豊臣秀吉が天下人になれる。安定した時代であればあり得ない、とんでもない変革の嵐が、戦国時代でした。
 そして戦国時代と今は、とても似ていると思います。いい大学を出て、有名企業に就職しても安心ではない。会社ではなく、自分自身のスキルが問われる。これはもう戦国時代じゃないですか。この時代の感覚が、私たちが戦国時代に惹かれる理由だと思います。城は戦国時代の象徴ですから、城に興味を持つのも、そのためだといえるでしょう。
 時代を感じさせる門や櫓、天守からの眺めなどは、城のわかりやすい見どころです。しかし、実は城にはもっと多く楽しめる見どころがあります。
 城の面白さは、石垣や天守があるところだけでなく、「ここが城だ」と説明されなければわからない、雑木林になっている「城跡」にも、それぞれあります。なぜそこに城を築いたのか、どんな守りの工夫をして、建物はどんな配置だったのか、そこで暮らした武将たちは何を見て、何を感じたのか……城跡に立てば、そんな想像ができるからです。
 例えば、「城下町」という言葉は魅力的じゃありませんか? 宿場町や町人地とはひと味違った雰囲気を感じるはずです。近世の日本で、町の中心はやはりお城。そんな感覚が私たちの中にしっかり根づいているからこそ、お城に惹かれ、様々な想像が広がる──それが一番の城の楽しみだと思います。

現在の安土城跡©Lombroso(CC BY-SA 3.0
城下町風景

城から見えてくる武将たちの個性

──先生が唱えていらっしゃる「城郭考古学」とは、どんなことを研究する学問分野でしょうか。

千田「城郭考古学」は、考古学の新しい研究分野です。長い間、考古学は文字のない時代を研究する学問とイメージされてきました。ですから、戦国時代や江戸時代、明治時代などを、考古学の方法で調査して研究することはほとんどされてきませんでした。しかし、文字の史料があってもなくても、モノ資料から解明できることはたくさんあります。城郭考古学は城跡や城下町の遺跡から、当時の社会や政治・人を考え、史跡整備を通じて今に活かしていく学問です。
 近年、新たにわかってきたことは本当に多いです。例えば、通説とは違った戦国武将像が見えてきたのも、その成果のひとつだといえます。まあ、織田信長こそ、自分一人が天下の中心という従来のイメージを証明するような城、安土城を造っていますが、ほかの武将たちにはそれぞれ新しい発見がありました。
 城から武将が見えてくるという点では、例えば、下克上の権化で戦国きっての大悪人とされてきた松永久秀※1の奈良県平群町の信貴山城。山の尾根尾根に武家屋敷があったのですが、久秀当人の屋敷もほかの家臣たちと横並びの場所にあって、信長と異なって全然「君臨」していませんでした。案外家臣思いだったのです。それでは、本能寺の変で信長を倒した明智光秀を城から見るとどうでしょうか。光秀が築いた京都市の周山城※2を分析すると、山の頂点に石垣で固めた光秀の本丸が中心になっていましたが、周囲の尾根にはやはり石垣を用いて独立した構造を持った家臣屋敷を配置していました。つまり、光秀は家臣たちを手足としてではなく、自立して考え、行動する集団として組織していたとわかるのです。独裁者としての色彩を強めていった信長と、家臣の発想を活かそうとした光秀、城のかたちが、武将の考えを鮮やかに映し出したのです。そして、城から見ると、近世的な信長と中世的な久秀の間に光秀がいたとわかります。
 つまり、本能寺の変で信長を倒した光秀がつくろうとした社会は、信長のように大名がすべてに超越した近世ではなく、中世的なゆるやかさを備えた「ちょうどよい近世」だったのではないかと思います。光秀が秀吉に敗れずに本当の天下人になったら、その後の歴史は大きく変わったのではないでしょうか。

信貴山城(平群町教育委員会作図)
周山城の航空レーザー測量図
出典:京都市文化市民局『京都市内遺跡詳細分布調査報告
平成29年度』2018

※1 松永久秀:畿内・阿波国の戦国大名である三好長慶にもともと仕えていたが、室町幕府との折衝などで頭角を現し、大名にまで上り詰めた。後に信長の家臣となったが、反逆を企て、奈良県にある居城の信貴山城で自害した。 ※2 周山城:現在の京都市右京区にあった山城。本能寺の変の前年(1581年)まで築城された。

施主として見た時の三英傑の違い

──信長、秀吉、徳川家康という戦国時代の三英傑と城には特別な関係がありますか。

千田今日、当時の建物が残っている城は、すべて近世のものです。ひときわ高くそびえる天守が城主の権力と威光の象徴となっていて、お城=天守というイメージが生まれるベースにもなりました。そうした各地の戦国から近世にかけた城の中にも、武将の個性が表れています。
 加藤清正の築いた熊本城が、徹底的に戦うのための城になっているのが代表例ですが、信長、秀吉、家康の三人が城造りの施主として要求したこともはっきり予測できます。
 まず、信長ですが、ひと言でいえば建築家泣かせでしょう。安土山の山頂に30mを超える五層七階の大天主を建てる(安土城は史料が記した「天主」と表記する)。前例のないもので、当然、大変な技術的挑戦でした。「信長のイメージをかたちにした天主を造れ」と命じられた大工は困り果てたでしょう。しかも、できないと断れなかったでしょうし。
 その一方で、建築家が一番仕事をしやすかった施主は、秀吉だったはずです。なにしろ、予算は潤沢で、派手なことが大好き。必要なものにはいくら費用がかかっても構わない。現代でいえば、一番高いビルに、最高速で新設計の展望エレベーターを設置しろ、というようなリクエストを出す人です。そのうえで設置工事は全部公開し、それを宣伝に使うような考え方をするでしょうね。
 その点、家康は質実剛健で、建築家にはシビアな設計が求められたと思います。お城本来の役目である防御を万全にしつつムダを最小限にして造れ、落成後に欠かせないメンテナンスにも十分考慮せよ、といった具合です。なにしろ、西国への押さえに建てた名古屋城でさえ、木材から釘の一本に至るまで全部入札を行わせ、一番安いところを選んだほどの締まり屋ですからね。
 お城はやはり武将の心の鏡。三者三様で各人の特徴がはっきり出てきます。

──現代でも、オーナーの人柄や性格まで考慮してビルやオフィスのフロアを設計することが重要になってくる場合があります。今に通じるお話でしたね。

安土城天主(富永商太画・千田嘉博監修)

現代の城とエレベーター

──城の人気が高まる今日、欠かせない装備はなんでしょうか。

千田これからの時代、より多くの方々に城を楽しんでいただけるようにするには、実は、エレベーターの役割が大変大きいと考えています。
 天守をはじめとした城全体が、日本の豊かな文化と歴史を実感できる史跡として、すべての人に開放されるものにならなければなりません。そのためには、昭和期以降に復元された天守はもちろん、城跡全体も史跡としての本質的価値を保ちながら、実現可能なバリアフリー化が求められています。

──どんなエレベーターだったらいいと思いますか。

千田例えば、ドイツのケーニッヒシュタイン要塞(Festung Königstein)では城壁に隣接してスケルトンタイプのエレベーターを設置しています。エレベーターの存在感をなくしつつ、バリアフリー化を達成したのです。ヨーロッパの城にできて日本の城ができないわけがありません。木造の復元天守に技術的にも景観的にもマッチしたエレベーターとはどのようなものか。健常者だけが城を訪ねて歴史を体感できればよいという時代は、もう終わりです。私たちの時代の英知を実現する、これまで想像もしなかった新しいエレベーターが開発されるのを期待しています。

──オーナーの人柄や性格まで考慮して建築を設計する重要性や新しいエレベーターが切り開く建築設計の可能性などが見えてきたように感じます。ありがとうございました。

ケーニッヒシュタイン要塞に設置されているパノラマエレベーター(18人乗り)©Norbert Kaiser(CC BY-SA 3.0

-COLUMN-
取材後記

 

もし戦国時代の城にエレベーターがあったなら、バリアフリーにできたり、城の中の移動がもっと楽になったりと、城はもっと快適で、過ごしやすくなったはずです。しかし、城はもともと軍事要塞として誕生し、外敵からの完全隔離を目的としていたもの。快適に移動できない仕組みが随所に取り入れられており、利便性や快適性の向上を目的とする今のエレベーターとは対極にある存在といえるでしょう。
 では、戦国時代の城のコンセプトにならって発想を逆転させ、あえて建物の中の移動が不便になるエレベーターがあったらどうでしょうか? 建築によっては、内部の動線をあえて迷路のように複雑にして、来場者に散策し、発見する楽しみを提供するように設計されている場合があります。利便性や快適性の追求を放棄し、それとは違った視点で造られたエレベーターがあったとしたら、それに刺激されて、新しい建築設計スタイルが生まれてくる可能性があるように感じます。
 城を様々な視点から見ることで、新しい何かが見えてくるかもしれない ── そんな期待が膨らむ取材でした。

次回は、“オフィスで役立つコロナ対策”に関するお話です。 乞うご期待!