FUTURE DESIGN

FUTURE DESIGN 2009 vol.20

都市と交通の未来形
 
フラックスタウン・熱海
フラックスタウンとは…
地形や既存の建設物などにしばられず、人やモノが自由に活動できる街。今回のプロジェクトでは、景観や歴史的建築物、固定インフラなど既存の都市構造物を活かしつつ、それらにとらわれることなく流動的に進化できる街を目指します。
 
世界的にも有名な日本の温泉。 その日本を代表する温泉地のひとつが熱海だ。
古くから江戸に近い保養先として名高く、1950年代には新婚旅行や社員旅行の定番となった。
現在でも観光客でにぎわう熱海だが、近年では東京に近すぎる距離と過去のイメージが観光地としての新鮮味を損ね、旅行先として敬遠される要因にもなっている。また、地方都市としては、少子高齢化や人口減といった典型的な問題にも直面している。今回本誌では、2人の建築家によるプロジェクトチームで熱海をリサーチし、2020年の熱海を構想した。
キーワードとなるのが「フラックス<Flux>」。
「流れ」を意味するこの言葉が象徴する、人とモノの流れを考えた新時代の観光都市とは、どのようなものなのだろうか。
 
 
観光地として知られる熱海。そこには味わい深い歴史とともに、 日本の観光地が共通して抱える問題点も見つけられる。 まずは歴史的な背景を加味しながら、現在の熱海が持つ魅力と課題を探ってみる。
 
 今や温泉の代名詞とも言える熱海だが、熱海の温泉が知られるようになったのはいつごろだったのか。遡れば、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に日蓮宗の僧である日興が、弟子に熱海湯治を勧めた記録が残っている。また、それ以前でも江戸時代の戯作者である山東京山が『熱海温泉図彙』(1832年)にて、5世紀末、海底より温泉が湧き出し多くの魚介類が死んだとの伝承に触れている。「熱海」の漢字表記は、海から熱い湯が湧き出たことが由来という説もあり、実際、熱海には湯温が90度以上ある源泉が多数存在する。
 熱海が「湯治場」で有名だったことは徳川家康が湯治に訪れたことでも推察できる。四代将軍家綱の時代からは熱海の湯を江戸まで運ばせる「御汲湯」が始まった。
 明治以降は、文化人や政界の要人たちが熱海を別荘地として利用するようになり、上流階級の憩いの場としての性格も備えるようになった。今も熱海には「起雲閣」や「陽和洞」など、当時の別荘が現存する。
▲明治時代の熱海全景(右)と熱海の温泉(左)
右の写真は1890年代と思われる熱海の様子。八幡山から熱海温泉の全景を撮影している。写真左手中央の森は熱海御用邸で、その左の長い建物は熱海学校と思われる。御用邸の背後には温泉寺や湯前神社があり、御用邸の右手に当時国内唯一の間歇泉であった大湯の湯煙が白く見える。手前にある民家の先に和田川があり、熱海海岸に注ぐ。そこから糸川までの間には水田が広がり、さらにその先には旅館と別荘が密集し、背後には伊豆山が写る。明治期に活躍した写真家の小川一真が撮影した。
提供:長崎大学附属図書館
 
  ▲神奈川県湯河原市吉浜付近を走る豆相人車鉄道
  1895年から1923年まで走っていた人力鉄道。人車は車丁が2~3人で押して人力で動かす。上等(定員4人)、中等(定員5人)、下等(定員6人)に等級が分かれ、下等の乗客は急坂では人車押しを手伝わされた。1898年頃には、1日14往復で熱海─小田原間を3時間50分で結んでいた。運賃は、熱海-小田原間が下等で50銭、中等75銭、上等1円だった。
提供:国立国会図書館
   
   入湯客で賑わっていた熱海だが、交通網の整備は遅れていた。東海道が小田原から箱根に向かっているため、小田原と熱海の間は山道があるだけだった。1880年に熱海─小田原間を結ぶ熱海新道の仮開通を皮切りに陸路が整備され、やっと人力車が通れるようになった。
 東京から熱海は距離にして約100km。1886年末に熱海を訪れた坪内逍遥は、午前7時に東京の新橋を出て、乗合馬車と人力車を乗り継ぎ、到着したのは夜だったという。1883年には東京と伊豆沿岸を結ぶ汽船が運行を開始。また、1895年には人力で客車を押す世界的にも珍しい鉄道「豆相人車鉄道」が登場するなど、インフラが徐々に整備されていった。
 さらに、1897年から新聞に連載された尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』で登場人物の貫一とお宮が繰り広げる熱海海岸での名場面により、熱海の名は全国に広まることとなる。
 そして、1924年には熱海線(現在のJR東海道本線)が開通する。それまで年間3万5千人であった熱海駅の乗降客が、この年は75万人にもなった。以降、日本の高度成長期に首都圏から観光客が押し寄せ、新たな発展と近代化の時代が訪れる。
 熱海は新婚旅行や社員旅行の定番となり、大型ホテルや旅館の建設は増加の一途を辿った。海外旅行どころか国内の遠距離旅行も珍しかった時代に、交通の利便性を生かし、東京から訪れやすい観光地としての地位を確立したのだ。
 熱海の人々は、大きく3種類に分類される。定住する地域住民、長期滞在する別荘族、そして観光客だ。
 地域住民の多くは、観光産業に携わっている。熱海市の人口は1965年には約5万5千人とピークに達し、宿泊客数も1970年頃より減少傾向を見せ始めた。
 しかもバブル崩壊以後は、社員旅行など団体利用が衰退し、それまで定番だった大型宿泊施設が敬遠され始め、さらに不況により別荘族、観光客の数が減少、熱海の観光産業は斜陽となっていく。
 また、住民の高齢化、交通の発達に伴う周辺地区への人口流出などもあり、地域住民の人口も1999年には4万4千人を割るまでに減少した。
 2002年以降の観光客数は、全盛期の約半分である800万人を割り込んでいるが、それ以降は横ばいを保つ。時代の変化による打撃を受けたものの、観光の目玉である温泉をはじめ、由緒ある寺社の数々、別荘などの歴史的建造物、山と海に挟まれた自然環境、首都圏からの好アクセスなど、熱海の普遍的な魅力は一定数の観光客に変わらず支持され続けている。
 近年も観光施設が整備され建設規制の緩和により温泉付きリゾートマンションの建設も続々と進行している。また、地元の若い世代によるNPO団体が、次世代の熱海を考える活動を展開するなど、ここへきて熱海の可能性を新たな視点から見直す動きが出始めている。
 これまで培ってきた歴史を尊重しつつ、定住者にとっても住みよく、観光面での魅力も再発見できる、熱海ならではの未来を考えてみた。
 
熱海の歴史
749年 大湯間歇泉の縁起
1374年 鎌倉報恩寺の住職、義堂周信が熱海で湯熱を利用して陶器や塩が作られていることを漢詩で紹介する
1604年 徳川家康が7日間熱海に逗留。御三家をはじめとする諸大名が「出世の湯」として熱海詣に繰り出し始める
1832年 『熱海温泉図彙』発刊
1854年 日米和親条約による日本の開国をきっかけに熱海が外国人にも保養地として知られる
1877年 大隈重信が保養に訪れる。以降、熱海が重要な会談の場となることがあった
1883年 汽船の運行を開始
1889年 日本最初の公衆電話が東京~熱海間に設置される
1895年 人力で客車を押す豆相人車鉄道が登場
1896年 電灯が熱海ではじめて点灯される
1897年 尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』によって熱海の名は一躍全国に広まる
1907年 熱海─小田原間に伊豆軽便鉄道が開通
1924年 熱海線(現在のJR東海道本線)が開通
1927年 海岸から100m沖合までの約20万m2を埋め立て。熱海の埋め立てのはじまり
1950年 熱海の中心部が大火災に見舞われ市街地の4分の1が壊滅するも短期間で復興
国際観光文化都市指定を受ける
1964年 東海道新幹線 熱海駅が開業。海浜公園、ロングビーチプール、駐車場を設置
1965年 熱海市の人口が5万4,540人となりピークを迎える
1982年 MOA美術館開館
1986年 延長200m、奥行き60mの砂浜「サンビーチ」が完成
1988年 観光客数が年間約1,400万人となりピークを迎える
1990年 社員旅行の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽化がはじまる
2000年 日韓首脳会議が熱海で開催される
2002年 観光客数が800万人を割り込み全盛期の半分に。温泉を引いたリゾートマンションが増加し始める
2006年 熱海市長が財政危機宣言を発令
2008年 原油高騰に伴って自動車が敬遠され、首都圏からの客足が戻りつつある
 
プロジェクトメンバー
■ プランニング
今村 創平
1966年東京生まれ。建築家。ブリティッシュ・コロンビア大学大学院、芝浦工業大学大学院などで非常勤講師を勤める。著書は『現代住居コンセプション』(共著)など。
■ プランニング・CG作成
松田 達
1975年石川県生まれ。建築家。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院建築学専攻修了。京都造形芸術大学、桑沢デザイン研究所などで非常勤講師を務める。建築系ラジオ共同主宰。
■ 文
田中 元子
1975年茨城県生まれ。ライター。2004年mosaki共同設立。建築系メディアを中心に執筆およびデザインディレクションを行う。
■ 構成
大西 正紀
1977年大阪府生まれ。編集者。日本大学大学院建築学専攻修了。ウシダ・フィンドレイ・アーキテクツ勤務後、mosaki共同設立。建築系プロジェクトの企画・編集を行う。
 

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